2008年02月23日
バーク・ウィルズ探検隊 のこと
いつかこんな旅がしてみたいですね。
うらやましい限りです。
バーク・ウィルズ探検隊 (Burke and Wills Expedition)とは、1860年から1861年にかけてロバート・オハラ・バーク(Robert O'Hara Burke)とウィリアム・ジョン・ウィルズ(William John Wills)が率いた総勢19名の探検隊のこと。彼らはオーストラリア大陸縦断を目指し、南のメルボルンから2,800キロ離れたカーペンタリア湾まで到達した。当時、オーストラリア内陸部を探険した者は先住民以外になく、ヨーロッパ系移民たちにとって未知の世界だった。
南から北へ向かった往路は成功に終わった(北部の海岸線から5キロ内陸の沼地で足止めを食っている)が、リーダーシップに欠けていたことと不運が重なり、復路で隊長のバーク、副隊長のウィルズはどちらも死亡した。往路・復路で合計7名が命を失い、隊で最も若いジョン・キングのみが生き残り、探険を終えてメルボルンへ生還した
探検隊は、1860年8月20日午後4時頃、15,000人の観衆が見守る中、メルボルン市内のロイヤル・パークを出発した。19名の探検隊中、イギリス人5人、アイルランド人5人、インド人傭兵4人、ドイツ人3人、アメリカ人1人であった。隊は6つの荷馬車と、この任務のため特別にインドから輸入された27頭のラクダを連れていた。
大量の備品がついていた。6トンの燃料用木材、2年分の食糧、スギ材で表面を覆ったカシの野営用テーブル(2つの椅子が付属)、のろし、旗、中国製の銅鑼である。備品全ての重さは20トンにもなった。バークは、隊員フランシス・カデルが備品を船でアデレードから輸送させ、マレー川とダーリング川で陸揚げすればよいと進言したのを取り上げることなく、全てを6つの馬車に積み込んだ。一つの荷馬車がロイヤル・パークを発ってすぐ、初日の真夜中にメルボルンの端エッセンドンに到着したばかりの時に壊れた。エッセンドンではさらに2台壊れた。激しい雨と悪路でヴィクトリア州を通過するのは困難で、時間を浪費することとなった。隊は1860年9月6日にスワン・ヒルに到着した。そこで隊は一部の備品と隊員数名を残した。9月24日のギャンバラで、バークは初めてラクダに食糧の一部を運ばせることに決め、そのため隊員の一部が残りの行程を徒歩で行くことになった。10月初旬にビルバーカで、バークと副隊長ランドルズは、バークが60ガロンのラム酒を空にすることを決めたことから口論となった(ランドルズはこのラム酒をラクダにやるつもりで持ってきた)。ダーリング川沿いのキンチェガで、ランドルズは隊の外科医ヘルマン・ベックラーに伴われて隊から離脱した。補佐のウィルズが副隊長となった。
1859年7月、南オーストリア植民地政府は、オーストラリア大陸南北縦断を成し遂げた者に2,000ポンドの報奨金を出すとした(2003年のレートで230,000豪ドル)。経験を積んだ探検家ジョン・マクドゥアル・ステュアートがこれに挑戦した。バークは、このステュアートが北岸で自分を打ち負かすかも知れないと思い、彼はゆっくりとした行程に我慢ができなくなっていった。隊が10月12日にメニンディーに到着したとき、バークは隊を分けて、自身を含む8名を選んでクーパーズ・クリークへ早く到達する計画をたてた。残る隊員には、後から大陸縦断を目指す者が通りかかったら捕まえて待つよう命じた。隊は10月19日にメニンディーを出発、補佐に選ばれたウィリアム・ライトがガイドをした。トロウォット湿地でライトはメニンディーへ引き返して残りの隊員と合流し、バークはクーパーズ・クリークへ進んだ。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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